杉原千畝とは
- 外交官。第二次大戦勃発時、リトアニア共和国カウナスの領事代理に在任中、ナチスドイツの迫害を受けていたユダヤ人約6,000名に受給資格を満たしていないにもかかわらず、独断で渡航ビザを発給した。
- 戦後、外務省の人員整理の対象となり外交官を辞職するがその人道的行為は彼の逝去(1986)の後に世界から高い評価を受けるようになる。
- 杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在数十万人以上にも及び、世界各国で活躍している。
- また、やはり当時、ナチスドイツのホロコーストから多数のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーの功績になぞらえて「日本のシンドラー」と呼ばれることもある。
- 1900年(明治33年)
- 1月1日父好水と母やつの二男として出生。(本籍:岐阜県加茂郡八百津町)
- 1917年(大正6年)
- 愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業後、父の強い勧めにより京城医学専門学校を受験するが、白紙答案を出し退席。
- 1918年(大正7年)
- 早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)入学。
- 1919年(大正8年)
- 同大学中退。外務省留学生採用試験受験に合格し外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡る。
- 1932年(昭和7年)
- 満州国外交部特派員公署事務官となる。
- 1935年(昭和10年)
- 日満ソ三国協定成立。
- 1939年(昭和14年)
- リトアニア・首都カウナスに領事館開設を命じられる。
- 1940年(昭和15年)
- 7月ユダヤ難民へのビザを発給。8月26日までに計2139家族に日本通過ビザを書き続ける。
8月29日カウナス領事館閉鎖。後、チェコ・プラハ総領事館に勤務。
- 「大した事をしたわけではない。人間として当然のことをしただけだ。見殺しにすることなど出来なかった。」
- 「私は考え込んでしまった。
元々、彼らは私にとって、何のゆかりもない赤の他人にすぎない。
いっそのことビザ拒否を五名代表だけに宣言し、領事館オフィスのドアを封印し、ホテルにでも引き上げようと思えば、物理的には実行できる。
しかも私は本省に対し、従順であると褒められこそするであろうに。
私は考え込んだ。
仮に、本件当事者が私でなく、他の誰かであったならば、百人が百人拒否の無難な道を選んだに違いない。
なぜか?
文官服務規定というような条例があって、その何条かに縛られて、昇進停止とか解雇が恐ろしいからである。」
(千畝手記より)
- 「苦慮の挙句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。」(千畝手記より)
- 「忘れもせぬ一九四〇年七月二九日からは、一分間の休みもなく、ユダヤ難民のための日本通過ビザ発給作業を開始した次第です。」(千畝手記より)
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